奥天昌樹 インタビュー|2016年アーカイブ
10年前に開催した奥天昌樹個展のフライヤーに掲載したインタビュー記事です。
当時の作品と現在とでは、扱うイメージや制作方法に変化が見られます。しかし、モチーフがもともと持つ意味や物語から距離を取ること、制作に制限やアクシデントを取り込みながら画面を展開していくことなど、現在へと続く奥天の制作の軸もすでに語られています。2026年の個展「nowhere」を前に、10年前の奥天が自身の絵画について語った言葉を再掲載します。

Artist Interview
奥天昌樹
Masaki Okuten
聞き手=田森葉一(みんなのギャラリー)
――まず、ご自身の制作スタイルについて教えてください。
モチーフはインターネットから見つけた画像とか、古写真が元になっています。それらのモチーフに、僕が無介入なアクシデント要素を入れてリメイクするという作業をやっているのですが、その作業はコラージュに近いようにも思いますし、より感覚的には洋服のリメイクに近いようにも思います。筆で何かをするというより、既存イメージを使って、そのイメージを違ったものに変化させていくことを見せたい。そして自分が思う絵画とは何かと言えば、ミニマルなもの、だと思っています。
――描き始めはまずイメージを探すところから始まるのですか。
そうですね。絵の素材として面白いであろう素材というのは、アノニマスな写真だとか、何だかわからないようなものを選びます。イメージが持つ意味性や背景をそのまま活かすことはしません。
――イメージを選択すること、そしてイメージを絵画の素材として、元の意味を失くして画面に適切に配置する。そうしてできた作品の、見方というのは、難解になるように感じますが?
作品をどう見るかという疑問は、できれば、無意識に素通りして欲しいなとは思っています。自分の描写技術を使ってモチーフを忠実に再現したいわけではないですし。
それよりも、イメージの組合せの中で画面に起こってしまったノイズのようなものが、実はないとつまらない画面になってしまう、その妙というか、画面にあるバランスに注意して完成させているところを認識してもらえればいいなとは思います。
――感覚的に洋服のリメイクに近い、ということですが、その感覚をもう少し詳しく教えてください。
洋服ではありませんが、例えばレトロなミシン台をテーブルとして使うお店などを見かけることがあります。本来想定されていた使い方とは異なるけど、新しい使い方、ものとして上手く機能している。簡単に言えばそういうことで、私の作品で言えば、既存イメージをモチーフとして使うときも、イメージが持つ意味を活かすことが重要なのではなく、色、形、配置においての選択操作を主軸に置いていて、画面の中でうまくはまるところを見つける作業を行っていると思っています。
私はマルセル・デュシャンという作家がすごく好きで、彼の作品にとても影響を受けているのですが、既製品を、本来の使い方とは異なる扱いをしたときに、鑑賞者に不気味な違和感を与えるというか、そこで起こる現象に興味があります。デュシャンの作品のように、自分が何もしていない素材を使うということ、それを使うことで画面の中に何かアクシデントが起こること、それらを条件としたことが、今の制作姿勢にあると思います。
――デュシャンのレディメイドという概念は後のアーティストたちに多大な影響を与えたと思いますが、奥天さんの場合、彼の影響を受けながら、絵画というメディアを選んだことには何か意味があるのですか?
僕が彼から受けた影響はヒントでしかないと思いますが、絵画というメディアにおいても同じことはできて、その方が難しく、また面白いのでは、と思いました。具体的に何をしたかと言えば、ペインティングという技法に加えてシルクスクリーンという版画技法を取り入れて制作するようになったということで、そこには僕自身予期していない化学反応みたいなものが期待できるのです。つまり画面の上で、描くということに対して、刷るということは、画面操作の自由度が制限されることになり、その難しさを前提として作ることに面白さがあるのではないかと思ったのです。
私は作品に子供の落書きを引用することがあるのですが、そうしたときに、子供の落書きであるが故の不自由さを得ることができます。どうやってそれを画面に写そうかなと思ったときに、筆で描いていればここまで線が引けて決まるのに、とか思ったりします。でも既存の状態を無理に改編せず、付け足しもせず、ある程度の不自由さと、制限を設けるというのが、先程言った無介入なアクシデント要素を入れるということであり、その上で作品に向かっていって、画面を良くするということをしたいと思っているのです。
――子供の落書きを引用することに関して、やはりここでもイメージが持つ意味というのは、重要ではないのですか?
元々、最初は甥っ子自体をモチーフとして扱っていました。彼が大きくなるにつれ、自我の形成が進むと、画面でも一人の人間として主張し始めてくるようになってきました。彼をモチーフとして扱わなくなったときと、子供の落書きを扱うようになるタイミングは丁度重なるのですが、甥っ子というモチーフも落書きも、やはり元々のイメージが持つ意味や物語を活かそうとは思っていません。
ただ、落書きを使い始めたとき、芸術というものに対して、落書きというのはどの位置にあるものなのか、ということは考えました。それを画面に入れてしまうことは危険なことなのかと。でもそれぐらい危なっかしいことのほうが僕は面白いんじゃないかなと思ったし、落書きのように描いたものを芸術に昇華させようとした作家はいるけど、落書きをそのまま引用していた作家というのはいないのでは、とも思って、落書きを転写して作品の素材として使おうと思ったわけです。
――既存イメージを素材として画面にはめていく行為、ということについて詳しく教えてください。
例えばアンディ・ウォーホルは戦略的に既存イメージを使っているけども、僕はそこまで戦略的に既存のイメージを使っているわけではないから、ポップアート的ではない。既存イメージを使ってストレートな主張をしようということは考えていないのです。それよりも既存イメージを使って、自分のペインティングを活かすことを考えていて、画面の中での色や形や配置を考えて作品を完成にもっていくということに興味があります。
パソコンを使えば事前に画面のどこにどの大きさで配置するかを探ることが可能なので、最近では特にイメージを配置させることの効果に必然性と確実性が増していると思います。
私にとって絵画は、描けばかくほど、描写すればするほど、息苦しくなっていくと思っています。ですので、絵画で何をするのかということより、何をしないのかというミニマルな考え方が、絵画の完成プロセスだと思っています。つまり、予め自由度の低い素材を使って、少ない手数で決め打ちされて、それでいて核を突いているような作品、そういうプロセスで作品を作りたいと思っています。
――個展開催は2009年以来7年振りになりますが、どのような展示空間を作りたいと思いますか?
今まで100号クラスの作品を主軸に少数の作品で展示を構成してきましたが、少しサイズを落として複数での全体の見せ方を意識しました。基本的に今までやってきたことと大きな変化はないと思いますが、今までよりペインティング感を強めに出した作品が多いようにも感じます。
絵の具表現に対してフラットな一手の面白さや、作品が完成に向かっていく核となる一手を作品を通して感じて頂ければ幸いです。
関連情報
奥天昌樹 個展「nowhere」
2026年9月3日(木) - 20日(日)
みんなのギャラリーでは10年ぶりとなる奥天昌樹の個展。作家と同じ地点に立つことで見える「現在地」としての「どこでもない」景色とは。



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