
『環世界』
出展:奥天昌樹、金炯紀、西村陽一郎、吉岡雅哉
会期:3月1日(土) - 9日(日) ※会期中無休
時間:12:00-19:00
●グループ展『環世界』の構想 文:田森葉一
生物がそれぞれ独自の時間・空間として知覚し、主体的に構築した世界のことを環世界と呼ぶ。環世界はドイツの生物学者、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した、生物学における概念だが、アーティストと彼らの創るアート作品の存在、そしてそれぞれの作品が並ぶ展示空間を一種の環世界と捉え、この言葉を今展のタイトルとして使ってみたい。
昨年行ったグループ展では、モーダルミュージックの世界(旋律の雰囲気の違いを優先した音楽)をヒントに、「Modal Landscape」という造語の展示タイトルを付けた。各作家が創り出す作品上の景色の違いを楽しみながら、それらの地平を、鑑賞体験を通じて自由に繋ぎ合わせてもらいたいという思いがあった。それでいくと、今回もやはり似たような空間作りをイメージしているように思う。
美人画展や、ねこ展のように、ある一つのテーマやトピックを立てて、そこに合う作品を探し集めるというアプローチは、グループ展の組み立て方としては筋が通りやすいのだと思う。こちらはというと、前回も今回も、プロセスがそれとは真逆だ。文脈の異なる各作家の作品がまず最初に、既に作られた状態から、プロジェクトは始まる。そこからどんな繋がりが見出せるのかは、空間を作り、展示を見て、作家や鑑賞者と対話をしながら考えたい。
分散化、脱中央、多様性などなど、比較的独立を感じる向きの言葉が聞こえるようになって久しい。そうした言葉にも聞き慣れてきた一方、その方向性に対抗するかのように、分断、保守化、自国中心といった言葉もまた聞こえてくるようになった。互いの世界が摩擦なく共存することは本当に難しい。
「どうやらあちらは、こちらとは違う考えをお持ちらしい」という認識が、どこかの段階で起こるのではないかと思う。そのうえで互いに取り合う行動は、静的なものあれば、ときに激しく動的な場合もあったりする。話し合いによる解決か、はたまた戦争か、といった具合に。
環世界においては、どの生物も自身の環世界がすべての世界だと思い生きているとされる(思っているのかは分からないけど)。にもかかわらず、生物たちは摩擦なく全体の中で調和を取りながら存在しているとユクスキュルは定義したそうだ。
同じように考えるなら、私たち自身にもそれぞれの世界がある。
ときどき、自宅の壁の隅っこに蜘蛛の巣を見つけることがある。私にとって部屋の隅っこは特に使い用のない所だが、蜘蛛にとってはそこがおさまりが良いらしい。らしい、というのは、蜘蛛に良いのかどうか聞く術をこちらは持っていないし、蜘蛛もこちらに語り掛ける術を持っていないからだ。
私たちにとって、自分の世界はこうだと表現することは案外、というかかなり難しい。互いの世界の見え方がどれだけ違うのかを知覚することもなかなかできない。それだから摩擦は知らぬ間に起きてしまうかもしれない。(一応、蜘蛛の巣はそのままだ。摩擦は起きていないと思う)
話が分散化してしまったが、ハイパーローカルなギャラリーを運営する身として考えるに、アーティストとは、彼ら自身の世界を探求し、それを私たちにも見える形に創り出す存在と思っている。私たちは彼らの世界の一部を見て、自分と異なる世界が確かにあるということを知る。彼らの世界は、独自で、常に変化する。あちこち交差したり、飛躍したり、とんでもない出来事が起こったりする。でもそれは、私たち一人一人の世界も実は同じだ。とそんなことにも気付く。
彼らは、世界を知るべく旅する。旅の途中、ここへ立ち寄ってもらうときは、彼らがそれまでに発見した、世界の景色がどんなものだったのかを見せてもらう。一つ一つの出来事をこの空間に集めて、互いの物語の来し方行く末に思いを巡らせ、語り続けたい。そしてそれはどこまでも遠いところへ繋がることを発見したい。